今日のことは忘れよう

好きを発信していく。

可愛くなりたいと願う私へ

 

なんであの子みたいに私は可愛くないのだろう。

 

鏡を見て何度も思ってきた。大きくて吸い込まれそうな瞳があったらどんなに良かったか。アイシャドウが際立つ二重があったらどれだけメイクをするのが楽しかったか。鼻筋が通っている小さい鼻があったら、薄くてキスをしたくなるような唇があったら、透明感のある白い肌があったら…。

 

美人になる(これらは私が理想とする女性像を具体化したものであり、これらを兼ね備えている人が美人と決まったわけではない)要素はこんなにもあるのに私は何も持っていなかった。

 

俗にいうブスなんだと思う。腫れぼったい一重まぶたに小さい目、ブタを彷彿とさせる低い鼻。不揃いの歯並びが見え隠れする厚い唇に、面長とかいう救いようがない輪郭。美白サプリを飲んだところで改善されることのない黄色みがかった肌には、弱冠22歳にしてそばかすが点々と並んでいた。

 

ヒエラルキーで決まる女社会

女の価値が年齢と美しさで決まるだなんて信じたくもないけれど、どうやら世間一般ではそうらしい。幼い頃は寵愛されて育ってきたため実感しづらかったが、年齢を重ねていくにつれて自分は可愛い側の人間ではないのだと知った。クラス内ヒエラルキーでは常に下層だったと思う。平均的な容姿で平均的な能力があったらまだ良かったのかもしれない。

 

しかし、自分には容姿も能力もなかった。容姿端麗な人の能力の高さやセンスの良さを目の当たりにすると、どうして私は何も持っていないのだろうと自信を喪失し、次第に卑屈になっていった。ただ目の前にするだけでも、劣等感で死んでしまいたくなるのに、アルバイトを始めたり出会いの場を広げたりしようとすると社会というのはブスに優しくないのだと痛感させられた。

 

可愛くなりたいのは顔だけという矛盾と努力

酒を飲んだ客に「今日もブスだね」と言われたり、他のスタッフにだけお酒をサービスをする客と遭遇したり、「またみんなで飲もうね」と調子のいいことを言っておきながら自分にだけ連絡が渡っていなかったり。どれだけ学業やアルバイトを頑張っていようが、結局男性が重視するのは顔だった。中身が大事だよと都合のいいことを言っておきながら、多分自分も男性の立場だったら顔がいい女性を抱きたいと思うだろう。下心丸出しの男には嫌悪感を抱くくせに、女性としての価値を認めてもらいたいというジレンマを抱えていた。自分はどうしてこんなにも普通の女の子になりたくて頑張っているのに認められないのだろうとずっと思っていた。

 

ここまで自分を卑下しておきながら、女として認められたいと強く願っていたのは女を諦めきれなかったからだと思う。

 

毎日ぬるま湯で洗顔をして、何十と種類がある中から自分の肌質にあった化粧水や乳液を選び抜き、それを時間もお金もかけて惜しみなく塗りたくった上で、UNIQLOを着た美女に敵わないと分かりながらもファッションにある程度気を遣い、体型を維持するためにストレッチやマッサージを行い、気休めだと思いながらも美白サプリを飲み、スクラブをしないとゾウの肌みたいになる身体に保湿クリームを塗る。これがどれだけ大変なことかわかるだろうか。毎日のメイクにクレンジングはもちろん、月に1度の美容院や脱毛、何をするにもお金はかかる。パーソナルカラー診断や骨格診断をする余裕なんてもってのほか。世間がイメージする女を維持するだけなのにだ。何よりも鏡の中には代わり映えしない自分がいるのにも関わらず美を追求するモチベーションを維持するのが一番難しい。

 

服がダサいと指摘を受けた人が「自分なんかがオシャレをしたところで…」と言い訳をする理由がよくわかる。私もどれだけ美容を研究しようがお金をかけようが変わらないだろうと心の底で思っている節がある。

 

でも、女として生まれたからにはそんなことを言っていられない。ある程度、身嗜みを整えていないと社会からは虐げられる。高校を卒業した瞬間いきなり「化粧をしろ」と言われ、服装や髪型によっては「女らしくない」と言われ、サラダを取り分けるような気遣いがなければ「女子力が〜」と言われ、どんな話でも愛想よく笑いご機嫌を伺うことを求められる。そもそも今の私は普通ですらないのだろうか。「ブスだ」「愛想がない」と偉そうに言ってくる人たちはそんなことを言える立場なのだろうか。

 

きっとそんなことないだろう。こんな私に好意を持ってくれた人だっている。決して可愛いと褒められるような容姿ではないけれど、人並みにオシャレは好きだし、コスメやアクセにも関心が出てきた。二言目には抱けるか抱かないかなどと心底どうでもいいことを大声で話すバカな男の話など聞かなければいい。そう、圧倒的に自己肯定感が低いだけなのだ。思春期から顔面批判をされてきたおかげで劣等感だけが自分に残った。

 

自信が欲しかったのだ。自分が美を追求する理由は、社会に迎合したいからではなく、やはり女の社会的価値は美しさだと思うからだ。それは多分この先何十年と生きていようが変わらない事実であり、天変地異でも起こらない限り外見至上主義社会を変えるのは難しいだろう。美しさを手に入れないと女としての人権を得られないから、息が詰まるような人生も容姿が整えば生きやすくなると信じて疑わないから、可愛くなりたかった。

 

可愛くなりたいと願う私の行く末

しかし、可愛くなりたいと願うのは簡単だが、待っているのは地獄だ。女性の社会進出と共に、愛想や能力の高さまで求められるようになり、ブスで気の使えない私みたいな低能女はより生きづらくなっているのが実際だと思う。国家資格を手にしたところで自分一人で食べていくと思えるような気概は私にはなかった。現実は厳しい。これからも可愛くも従順にもなれない自分を責め続け絶望と虚無感でいっぱいになるだろう。美意識はどんどん肥大していくのに、乖離が進んでいく理想と現実に向き合わなければならない。

 

それでも、私は美を追求する。生きづらさを感じさせているのは容姿だけではない。容姿、能力、体質、病気、癖、思考。私を構成する要因全てが絡み合っているのだ。しかし、可愛くなくては意味がないと感じさせられるほどに、美醜に執着してしまったのだから、心ない言葉がいまだに私を呪縛し続けるのだから、整形でも化粧でも風俗でも、どんな手段でもいいから未来の自分は今より美しくなっていて欲しいと思う。

 

来月には23歳。もう初々しさや未熟さだけで売れる年齢じゃなくなってしまった。この文章は女でいることに疲れた私の愚痴であり、励ましであり、決意。2020年からのリスタート、どうかご無事で。