今日のことは忘れよう

好きを発信していく。

江藤ヨシカと私

 

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ヨシカは私に似ている。

思うことはあるのにヘタレで何一つ言えないところだったり、卑屈で自分に自信がなく、自分の中だけで物事を完結させているところだったり。初めてヨシカをスクリーンで目の当たりにしたときに、頭を鈍器で殴られるような衝撃を受けたのを覚えている。それはもう頭どころか心までめちゃくちゃにされた。こんなにも、私の気持ちを代弁してくれるヒロインが今までいただろうか?と。かつての痛い思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡り、いつのまにかヨシカと自分を重ねてしまっていたのは私だけではないはず。「絶滅危惧のヒロイン」と謳われているが、男女問わず誰もが通る道なのではないだろうか。いつまでも美しい思い出を脳内に召喚して過去から抜け出そうとしないところや、気持ちが暴走して思いもよらない行動を起こしてしまうところなど身に覚えがありすぎて怖い。

 

説明が遅れたけど、江藤ヨシカというのは綿矢りさの著作「勝手にふるえてろ」の主人公である。拗らせ女子を代表するヨシカが中学時代から10年間脳内で片思いを続けてきた'' イチ ''と、突如あらわれて猛アタックをしてきた会社の同期'' 二 '' との間で揺れ動く姿を描いた本作は、実写映画化もされており、笑ったり怒ったり泣いたり、表情がコロコロと変わる松岡茉優演じるヨシカを手に汗握りながら楽しめる作品なので気になった人は是非観てほしい。

 

ただその私の化身と言っても過言ではないヨシカと私がはっきり異なる点が、「自分が好きな人」と「自分を好きな人」どちらを選ぶかという点だ。腐る程少女漫画を読んできた私にとってもこれは悩ましい問題であり、人類にとっても永遠の命題なのではないだろうか。ヨシカは初めこそイチに会いたいがために同窓会を企画したりと突っ走っていたものの、紆余曲折を経てあれほど辛辣な態度で突き放していた「二」を選ぶ。その選択に納得はしているつもりだが、私はどこか腑に落ちないのである。

 

いや、確かにひっそりと10年間想い続けたところで記憶の片隅にしか残っていないイチに比べたら、二なんて胸に赤いふせんをつけていただけでときめいてくれるし、一緒にいても違和感の一つすら感じないし、ひどい振り方をした後に突然呼び出しても家まで来てくれるし、あんなにも真摯で一途で純粋に自分のことを想ってくれる人がいたら誰がどう考えても二を選ぶだろう。しかし、あの二だよ?と私は言いたい。

 

私もヨシカのように教室の隅で好きな人を視野見することを楽しみに生きてきた。だからこそ思うのだけれど、二はあまりにもタイプが違いすぎる。スポ根体育会系熱血バカだし、そばにいるだけで暑苦しいし、なんといってもノリがうざいし、バカだし、バカだし。他人の休日にマンションのエレベーターまで着いてくるところなんてストーカー一歩寸前。なんなんだあいつは。スクリーンを観ながらどれほど私がイライラしていたか。しかし、二の馬鹿正直さや裏表のなさはやがて虚構の世界を生きていたヨシカにとって唯一の光となる。

 

ここで原作で一番綺麗だと思った文章を紹介させてほしい。場面の状況はこうだ。かくかくしかじかでイチと2人きりで話すことが実現したヨシカ。片思いの相手と夜を明かすという絶好のシチュエーションで、絶滅危惧種というヨシカにとっては最高の話題で盛り上がり、イチとの運命を再び感じたシーンで、ヨシカは一向に埋まらない溝に疑問を抱く。

 

「どうして私のこと''きみ''って呼ぶの」

イチはわたしが大好きな、恥ずかしそうな笑顔になった。

「ごめん。なんていう名前だったか思い出せなくて」

江藤さんについて聞かせてと言ってきたときの二の顔が思い浮かんだ。江藤さんのこと聞かせて。私が胸に赤いふせんを付けていただけで、私を見つけてくれた人。 

 

二ーーーーーーッッ!!!!!!!

 

どうですか?二の好感度めっちゃあがりません?この後映画では、ヨシカがははっ…と力なく笑い膝から崩れ落ちた後、放心状態のまま自分の心の傷を癒すシーンが続くんだけど、その姿が本当に居た堪れない。ささいな言動を覚えていたり、相手について関心を抱いたり、それこそ「名前を呼ぶ」なんてコミュニケーションでは当たり前のことなのに、なんて尊い行為なんだろう…なんて愛が溢れているんだ…と考えさせられる場面であった。

 

***

 

処女を捨てたいとは思っているけど、どうでもいい男には捧げたくない。ヨシカは24歳(原作だと26歳)まで貞操を守ってきた。物語後半ではヨシカが自己肯定感の低さから「私のこと処女だから好きになったんでしょ!」「私が処女じゃなくなったら私の価値ゼロじゃん!そんなの怖いよ!」と二に対して喚き散らす。

 

原作では「処女とは新品だった傘についたまま、手垢がついてぼろぼろに破れかけてきたのにまだついてる持ち手のビニールの覆いみたいなもの」だとあれほど自嘲的に表現していたのにも関わらず、処女にこだわっているのはヨシカの方だった。もはや処女であることがアイデンティティ。正直わからなくもない。

 

そんなヨシカにひるまず二は何度も何度も愛の告白をするのだが、この時の二のいい男っぷりはマジですごい。ニの正直さを哀れんでいたヨシカが、二の正直さに心を打たれているのである。と、あれ、なんだか書いているうちに二派になってきたけれども、えっと、あれ?え?やっぱ二なのかなあ。うーん。

 

そもそもどうしてこんなことを考えているのかというと、つい最近まで自分もその状況に置かれていたからだ。こんなことを言ったら喪女のもの字もないじゃないかと怒られてしまいそうだが、そんなのはこの際どうでもいい。自分が好きな人と自分を好きな人の間で揺れていた。といったら聞こえがいいが、実際の私は自分を好きな人には見向きもしなかった。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて勝手だったと思う。ただ、恋しながら恋されるというのは非常に不自由な状況だった。どちらの立場の気持ちも分かるから切なくなって身動きがとれなくなってしまう。

 

「私には彼氏が二人いて、」と話を続けるヨシカほど拗らせてはいないが、自分が好きな人と自分を好きな人を天秤にかけ、どちらを選んだら幸せになれるのか量ってみたこともあった。そもそも選べるような立場ではないが。少女漫画では絶対に自分を好きな人派だったのに、現実はどうも上手くいかないらしい。そりゃあ自分が好きな人が自分のことを好きになってくれるのが一番だろうけど、好きな人と万が一億が一付き合えたところで私は好きな人が自分から離れていかないよう、嫌われないように重くならないように意識しながら、本当は面倒くさい私も全部愛してと願いながら、日々をやり過ごすだろう。そんなの疲れるに決まってる。

 

結局期待させ続けるのは酷だと思い、自分を好きな人のことは振ってしまったのだけれど、たかが数十分のために3時間以上かけて私に会いに来てくれた彼を思い出すと、本当にこれでよかったのだろうかと自問自答したりする。

 

どうして人は恋をするのだろう。私は恋をしていながら、自分に恋をする人の気持ちがわからなかった。自分に自信がなさすぎて、私の気持ちと彼の私に対する気持ちが到底イコールだとは思えなかったのだ。彼にも私の声が聞きたくて胸を焦がす夜や、ふとした時に私のことを思い出す瞬間があったのだろうか。好きになれたらどれだけいいかと思う人ほど好きになれないのは何故なんだろう。

 

物語の最後で、ヨシカは「妥協とか同情とか、そんなあきらめの漂う感情とは違う。ふりむくのは、挑戦だ。自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ。」と独白し、二へ抱きつく。その一文で、映画ではわからなかったヨシカの心情が明らかになり、私はハッとした。今までとは違う愛の形を受け止めるのは挑戦だったのか、と。たまに「好きになれそうなら付き合っちゃいなよ」と言う人がいるが、何を言っているのかわからなかった。それで好きになれなかった時、傷つくのは相手の方なのに、感情のない行為に心を消耗するのは私の方なのにって。

 

誰もが自分が好きな人と付き合いたいと思う。まれに自分を好きな人と付き合いたいという人がいるが、それは愛されているという実感と傷つかない保証が欲しいだけにすぎない気がする。しかし、手っ取り早く幸せを手にするなら、自分を好きな人を好きになる方が絶対にいい。それは時に自分が好きな人の好きな人になるよりも難しいことかもしれないが、そうして私という存在を見つけてくれた唯一無二の相手を信じることも大切なのかもしれない。それでも好きになれないならしょうがない。まとまらないけど、今ならなんとなく「好きになれそうなら付き合っちゃいなよ」という人の気持ちがわかる気がする。次もし自分を好きになってくれる人がいたら、今度は信じてみたい。

 

ちなみに、私は好きな人への感情が恋なのか依存なのか執着なのかすらもうわからなくなってしまった。少なくとも純粋な想いではない気がする。かかってくるかこないかわからない電話を待つことがいつの間にかライフワーク化していた片思いにもいつか賞味期限が来るのだろうか。告白してふられたとか彼に彼女ができたとか彼に幻滅したわけでもないのに、恋が死ぬのだろうか。きっと私が何か行動を起こしたところで、このまま手に入れてすらいない彼を失うのだろうなあとぼんやり考える日々です。

「この恋、絶滅すべきでしょうか?」

 

勝手にふるえてろ (文春文庫)

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